真宗木辺派  親鸞聖人ご滞在の寺院 伝えよう まごころとやすらぎのお念仏
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    伝 絵


吉水入室(ヨシミズゴニウシツ)
 親鸞聖人は、承安3年(1173)、京都の地に誕生されました。
29歳を迎えた時、それまで修行されていた比叡山を下り、吉水の禅室で念仏の教えを説いておられた法然上入を訪ねられました。出家されてより20年目 のことです。
ただ、念仏して弥陀にたすけまいらすべしと、お聞きし生涯の師とされました。


両聖人配流(リョウショウニンハイル)
 承元元年、法然上人の門下は専修念仏禁止の弾圧によって、師・法然上人は土佐へ。
ならびに、その主な弟子数人が流刑となり、親鸞聖人もその一人として越後の国に流罪に処せられました。


本尊出現(ホンゾンシュツゲン)
 39歳のとき、聖人は罪を許され、その後、家族とともに常陸の国に移られました。
 ある夜、霞ヶ浦の水底から毎夜、光るものがあり、それを漁師たちが大網で探ったところ、聖人の仰せどおり阿弥陀如来の座像でした。
その弥陀の座像を人家に安置して、念仏の教えをお説きになりました。


安部川(アベガワ)のわたし
 聖人は約20年間お過ごしになった関東をあとにし、帰洛の途に就かれましたが、安部川を渡るとき、大水で困難なところを笈の上の阿弥陀様に助けられて、難なく渡られたということです。


天安堂霊夢(テンアンドウレイム)
 道中のある夜、聖人が夢の中で毘沙門天王のお告げを受けられたことによって、この木辺の地にお越しになり、天安堂でお泊りになりました。
そして、念仏の教えをひろめられることになり、多くの人々が聴聞に集まりにぎわいました。


本書製作(ホンジョセイサク)
 聖人は稲田の草庵でお書きになった『教行信証』の続きをここ木辺の地で手がけられ、六巻のうちの二巻「真佛土」「化身土」の巻をここで書き終えられたと伝えられています。


真影自画(シンエイジガ)
 『教行信証』を書き上げられ、先師が代々受け継がれて、説かれてきた重要な文をすべて集めることができ、満足なされた聖人は自らの真向きのお姿をお書きになりました。
世に言う「満足の御影」です。


天女織錦(テンニョニシキヲオル)
 暦仁元年7月6日の夜、妙なる音楽が鳴り、天女が舞い降りてきて蓮の糸で錦を織り、翌朝、仏前には紫香の錦(横幅三尺=90cm、縦一丈五尺=455cm)が供えてありました。


賜添錦勅額(ニシキヲチョクガクニソナエタマウ)
 その年の秋、紫香の錦を時の帝、四条天皇に献上されました。
天皇は感激なされて、「天神護法錦織之寺」という勅額を下されました。
 60歳を越えたころ、聖人は京都に帰られ、お念仏の教えを伝えられました。
そして、1262年(弘長2年)旧暦11月28日、90歳にわたる生涯を閉じられました。

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